日本における大陸文化の影響について述べる

 古来、日本に文字が存在しなかった。そのため、原始日本の姿を探るためには、地下から発掘される遺物と中国の歴史書に頼らなくてはいけない。
 中国の歴史書に日本のことが初めて出てくるのは、『漢書』「地理誌」にある「それ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる、歳時を以て来たりて献見す、という」とある『漢書』は、前漢時代のことを記録したものであるから紀元前1世紀の頃には、すでに楽浪郡を経て中国大陸と日本との間に交流があり、大陸文化の影響を多大に受けていたことが伺える。
 文献的に以上のことは証明済みだが、地下から発掘される遺物からそのつながりを証明できうるはずである。
 一つの例として、墳墓を取り上げてみる。すでに、紀元前2世紀の後半には、九州北部と朝鮮半島との間には何らかの交流があったものと推測される。それは、この時期、両地域に分布する青銅器をみても明らかである(註1)。
 その後、紀元前1世紀頃になると九州北部と朝鮮半島南部の墳墓から出土する小型ほう製鏡や鉄製品からこの両者の地域がこの時期も密接につながっていたと思われる。しかし、両者の墓制には微妙な違いがある。副葬品が少々違うのである。朝鮮半島の木棺墓には、鉄製武器と農工具がほとんどなのに対し、九州北部の厚葬甕棺墓には、鉄製武器は見られず、その代わりに武器形青銅器が副葬されている。いずれにしろ、この時期から両者において副葬品を持つ厚葬墓が造営されるようになるのである。
 その後、2〜3世紀に至って、墳墓の階層化が急激に進んでくる。帯方郡が設置され、中国大陸の文化がもたらされるようになる。このため、上位支配者層の墳墓は、厚葬の大型木槨墓になり、副葬品も大陸からもたらされた漢式遺物が多くなる。
 日本も、この頃同様にして、墳墓の大型化が進む。朝鮮半島南部と違う点は、日本の墳墓が墳丘墓となったくらいで、副葬品の充実や漢式遺物の導入などは朝鮮半島南部の墳墓と同様に進化してきたのである。さらに、一部の墳墓では、主体部に木槨墓を使用した墳墓も見られる。この後、日本では竪穴式石槨に移り、木槨墓を使用することはなくなるのだが、一時期、朝鮮半島の代表的な木槨墓を採用していたことは、まぎれもなく両地域に交流があったことを証明している。
 不思議なことに、このような文化的な伝播は普通時間をおいて普及するものだが、木槨墓の採用については、両地域でほぼ連動して起きていたのである。
 つまり、紀元前1世紀頃にはすでに墳墓形式の伝播経路として漢→楽浪郡→三韓(朝鮮南部)・倭(日本)という経路出来上がっていた可能性が高いのである。
 その後、5世紀末に日本独特の墳墓である前方後円墳が朝鮮南部に出現するようになる。このことは、日本と朝鮮半島南部がお互いに文化交流し、日本の文化が朝鮮半島に逆輸入された結果であり、日本書紀にある「任那日本府」の伝承も完全に否定することは出来ないのではないか。
 続いて銅鏡にスポットを当ててみる。銅鏡も中国大陸から日本に伝播し、権力の象徴として活用されてきた。しかし、中国・日本と異なり朝鮮半島南部ではあまり重要視されていなかった。かといって全く出土していなかったといえばそうでもなく、紀元1世紀後半〜2世紀を除いて銅鏡を発掘することができる。だが、この空白期間の間に銅鏡の性格はまったく変わってしまっている。
 1世紀前半以前に出土する銅鏡は、前・後漢、韓鏡で中国の影響を受け、副葬品として使用されていた可能性が強い。しかし、朝鮮南部では権力の象徴としての道具ではないで小型のほう製鏡が多い。空白期間を経て、2世紀以降は、日本との交流によって銅鏡が導入された可能性が高い。
 つまり、銅鏡の出土状況からみて古代朝鮮半島南部は1世紀前半以前は中国、2世紀以降は、日本の影響を強く受けた可能性が高いのである。
 朝鮮半島南部の墳墓、銅鏡の出土状況をみると、古代の日本が、中国・朝鮮半島の文化を受け止め、独自に進化していったもの、そのまま受け止めたもの、逆に朝鮮半島南部に文化の再輸出をしたものなど、想像以上に朝鮮半島との文化交流が進んでいたのではないかと推測される。
 以上のことから考古学的にも、中国・朝鮮・日本のつながりが証明されつつある。これから各地の発掘が進むに連れ、お互いのつながりがもっと明らかになっていくであろう。

(註1)高久健二「三韓の墳墓」『東アジアと日本の考古学-墓制-』、同成社、2001年

<参考文献>
後藤直・茂木雅博『東アジアと日本の考古学-墓制-』同成社、2001年
西谷正『韓半島考古学論叢』すずさわ書店、2002年
『季刊 考古学』第80号、雄山閣、2002年